自己紹介

自分の写真
イラストレーター、DJ ヨシダキョウベイ[Kyobei]/大阪芸術大学美術学科中退/伊勢志摩マニア お仕事のご依頼は kyobeya@gmail.com まで。

2011年1月30日日曜日

VESPAでお蔭参り その3


その1未読の方は⇒こちらへどうぞ
その2未読の方は⇒こちらへどうぞ 

三日目。旅の最終日。またぞろ暗いうちに目をさまし、一人大部屋を抜け出して朝の二見浦へ。もちろん前日に撮り損ねたご来光をしかとファインダーに収める為であります。この日はヘマもなく無事、日の出前に二見興玉神社へと着きました。撮影場所も確保し準備万端、カメラ構えて待つ事数十分。へい、かもん!どーんと来やがれおひさま!…なんて気張っていましたが蓋を開けてみると薄曇りの空。昇った太陽は輪郭がぼやけ、膜で覆われたかのようにおぼろ気な輝きであります。さながらコンドームを被った太陽。朝日を薄汚く感じたのは生まれてはじめてです。過度な期待がそう感じさせるのでしょうか、諦めていつものコンビニへ行きサンドイッチを買ってベンチでモーニングを摂る事にしました。“御来光激写”はあえなく失敗に終わりましたが海を眺めながらの朝食はやはり気持ちがいいものです。潮騒の中、寄せては返す白波を見守るうち、時化て曇る日もあれば凪いで晴れる日もある事を思い、いつか最高の御来光に巡り合えるだろうからまた懲りずにおいでよと海に言われているような気さえしてきました。とにかく天候に一喜一憂しているのが勿体ない。今日を悔いの残らぬよう楽しまねば、と二見浦を後にします。

 宿へ戻りチェックアウトの準備をします。が、土産物で荷物が増えた為、リュック詰めに難渋します。ぼこぼこに膨れあったリュックはまるで登山隊の物のようです。何度も出しては入れ直し、旅装を整えながら、昨晩(早々と就寝した為)ろくに話も出来なかった相部屋の宿泊客と会話を楽しみました(皆さん東京から来た人たちでした)。
潮音山大江寺
 さてチェックアウト。ありがとう大江寺ユースホステル。今までに何度も利用してきたというのにいつも去り際の寂しさに襲われます。時間の許す限りもっとここにいたい。お世辞にも綺麗とは言えないし見ず知らずの人間と相部屋で風呂もトイレも共同、蜘蛛だって出る。虫の鳴き声もすりゃ蟇蛙が玄関に現れた事だってあるけどそんな手つかずで放縦な自然の只中にあるこの宿が大好きだ。ビジネスホテルや民宿では決して味わえない、豊かな生命の息吹と懐かしさと交流がここにはあるのだ。
 後ろ髪引かれる思いで引戸を閉め、大江寺本堂の方に御参りを済ませたらべスパに跨り江の町を後にします。どこに行こうか白紙状態のまま一路、42号線を南に走り、鳥羽方面へと向かいます。池の浦や蘇民の森を通り過ぎ、海を横目に朝のドライブです。気持ちいい事この上ないのですが、このルートに少々飽きを感じていた為、鳥羽駅手前で方向転換、再度神宮参拝をすることにしました。数年前、地元警察の方から教えて頂いた裏道を使い鳥羽から一気に伊勢神宮内宮まで行きます。途中、別宮である月讀宮に出くわした為、ここも参拝いたしました。内宮参拝の際いつかお参りしようと思いながらもついつい遷延を繰り返してきたのでこの機会を逃すまいとべスパを停めます。月讀宮は宮域内に別に三社を祀っており、月讀尊(つくよみのみこと)の魂を祀る月讀荒御魂宮つきよみのあらみたまのみや)とイザナギノミコトを祀った伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)とイザナミノミコトを祀った伊佐奈弥宮(いざなみのみや)を合祀しております。イザナギとイザナミといえば“国生み”の神話が有名な夫婦神で国土を生み、沢山の神々を生んだ創造神です。国土をべスパにて走り回り、創造(想像)を楽しむ者のはしくれとしては畏敬の念が沸き起こらずには居られません。三社とも丁寧に二礼二拍手一礼の拝礼を致します。
参道歩かば…
 月讀宮から走る事1.8km程。内宮に到着です。駐輪スペースにべスパを停め、再度宇治橋を渡ります。神域の玉砂利を踏み歩き、大樹の杜を抜け、柔らかな木漏れ日に染まる石段を上がって拝礼致します。深呼吸するととても心地良く、上質な酸素が肺の奥底へと沁み渡り体の中までリフレッシュされたような気分になります。樹々と樹々の隙間からそこはかとなく漂う臨在感。ある人はそれを“神の息吹”と表現し、またある人は“杜の声”だといいます。確かに樹齢何千年にものぼる樹々が沢山あり、大いなる生命の脈動が今まさに波を打っている事が傍に感じられるのです。
 しばし清新な心持で宮域を逍遥します。荒祭宮、風日祈宮と別宮二社を参拝してから伊勢神宮内宮に別れを告げます。ザクザクと参道に響く玉砂利の音がいつまでも余韻となって心に響きます。

荒祭宮
 午前中とはいえ小腹が空いて来ましたので、おはらい町の人波を掻き分け進み、定番中の定番、赤福本店にて赤福餅を食べる事にします。伊勢神宮に来たら必ず本店を訪れるようにしていますが、今回は旅の最後の〆という形になりました。五十鈴川に臨む座敷席にて熱い伊勢茶と赤福餅を味わいます。座敷の向こうには神路山の眺望が広がっています。江戸時代には『一生に一度はお伊勢参り』と言われる程、お伊勢参りが大流行したといいます。通行手形を持たず家族や雇用主にも許可を得ず『抜け参り』と呼ばれる違法の旅に身を投じる者まで現われたそうです。その事を思うと時代が変わったとはいえ、当時の人から羨ましがられるような旅行を何回もしている自分が本当に贅沢者に思えてきます。そんな事を考えながら春のうららかな山化粧を眺めました。おそらくこの景色は当時から変わっていないのだろうな、なんて遠い中世に思いを馳せつつ一盆たいらげました。
 さて赤福本店を後にして、やはり気になっていた神宮御料酒〈白鷹〉を買う事にしました。〈白鷹〉の酒造は兵庫県西宮市にあり三重(伊勢)の地酒ではないのですが内宮にて供奉されてある樽の白鷹を見るにつけ、一度飲んでみたいという思いに駆られていたのです。直売所白鷹商店へ行き、一合を直呑みしている客をうらやましく思いながら一本買いました。べスパ後部シートに括り付けていたリュックに壜を無理矢理つっこみましたがもはやぱんぱんに膨れ上がってウミガメみたいになっています。
戦利品
 さあ、充分楽しんだ。時間も時間です。早めに切り上げ大阪に帰ろう。と思いべスパを走らせましたが、忘れていた用件を思い出し、初日に訪れた河崎町へと再度向かいました。酒器を買うのを忘れていたのです。あてがあったわけではないのですが昔ながらの町屋が建ち並ぶあの界隈なら何かしら器を商う店があってもおかしくない、と思ったからです。で、行ってみるとやはりありました。食器、陶器全般を扱っている店が。…ですがこの店、ほぼ商売は諦めているのか、商品はほとんどが埃まみれ。しかも余程来客が珍しいのか私が入ってきてもしばらく電気を点けないで私の顔や出で立ちを眺めまくっています。なんとも弛緩した店であります。商売を半分放擲したような店ですが、意外な事もあるもので私が求めていた意匠の器をずらり取り揃えてあったのです。そう、私がイメージしていた酒器とは陶芸家が作るような高級かつ典雅な一品とは違い、どこか安物臭漂う伊勢志摩旅行の記念品的な器が欲しかったのです。店主が大阪から来たのか等と延々質問責めをして来る間、ゴミのように無造作に積まれた器達を仔細に眺めていたら、ガラスケースの中で一際いい味を醸し出した杯が転がっているのを発見したのです。白地に筆で殴り書いたような川が描かれ「内宮」と書かれてある。同じようなデザインで海と岩が二つ描かれた物もあります。しかも御丁寧に「二見浦」と書かれてある。なんて安いデザインなんだ!あまりにも安すぎて今時無いぞ、と小躍りしそうになりながら店主の嫁らしき方に一個一個見せてもらった(店主はさんざん喋った後、接客を勝手に切り上げどこかへ消えていた。なんて自由人だ)。するとどれもこれも縁が欠けていたり絵がずれていたり剥げていたりと、十個程見てもまともな状態の物は一つもなかった。普通なら買わないのだが、此処まで来たら“邂逅”“運命”“めぐり会い”だ。買わずに帰る事など考えられなかった。なのでまとめて千円でどうかと交渉してみた。すると断られるどころか願ってもないといわんばかりにあっさり取引成立。当たり前だ。埃まみれの“難有り物”を買おうなんて私くらいのものだものな。
 パンパンになって悲鳴を上げているリュックにもう少し頑張ってもらい酒器を詰込みます。さあ今回も伊勢志摩を存分に楽しませてもらいました。いざ帰ろうぞ!ってな事で大阪へ向けべスパを飛ばします。アクセル全開。天気も晴れてきた。度会橋を越え、宮川沿いに輝く春の景色を横目に伊勢を後にします。風にたなびく緑の世界。草木の匂いがまるで私を帰さなくするように優しく包み込んで来ますが、それらを容赦なく突き破り街道を進みます。心には溢れんばかりの名残惜しさで一杯でした。また絶対来るよ!私はべスパが進むたびに後方へと流れていく伊勢志摩の景色と思い出に一人ごちました。
おしまい

2011年1月23日日曜日

VESPAでお蔭参り その2


その1未読の方は⇒こちらへどうぞ

 旅の二日目、朝、五時頃に起き、定番の“夫婦岩のご来光”を写真に収めるべく身支度をして宿を出ました。夫岩と婦岩の間から、水平線の彼方に浮かぶ日の出を激写したかったのであります。ただ時間設定を失敗したため、宿からの坂道を下った時点で既に赤々とした太陽が空から顔をのぞかせ輝いておりました。わーきれいねー…。地団駄を静かに踏みつつも一応、二見興玉神社へ向かいます。来光のとっくに済んだ夫婦岩を拝んでから海辺の道を歩き、コンビニで朝ごはんを仕入れ堤防にて朝食です。
 食後は持ってきたカメラで二見~江の風景を撮りながら散歩し、宿へ戻ります。戻る途中、前方から来た相部屋の奈良の子のバイクとすれ違いました。旅装で運転していたので既にチェックアウトしたようです。お互い手を振って別れました。部屋へ戻るともう一人、神奈川県厚木市から自転車で来たという男の子も既にチェックアウトしておりました。がらんとした大部屋で一人、持参PCで書き物をしていると千葉市川の女性がチェックアウト前に挨拶をしてきました。これから和歌山熊野方面を旅するとの事です。どうやら私以外は皆、一泊だけのようです。とにかく良い旅を。
 やれ顔を洗い歯を磨いたら、私も一路、本日の目的地大王埼灯台を目指しべスパをキック・スタートさせます。朝の清浄な空気の中、眼前にそびえる朝熊山を眺めつつ走ります。2ストロークエンジン特有のパーカッシブな鼓動に乗せられ、二見~鳥羽間の緑の中を期待に胸ふくらませ突っ走って行きます。鳥羽から先へは大好きなパールロードに乗りこみ、快晴の海を見渡しながら、大声で放歌しつつの運転です。対向車にはさぞかし頓狂でアホに映った事でしょう。
 ここパールロードは鳥羽~志摩地方の風光明媚な景色が存分に楽しめます。流麗なアーチを描く麻生の浦(おおのうら)大橋付近では停泊する漁船や養殖用の筏群といった港町の風景が広がっていました。そこからワインディングした道をぐるぐる回って、ジュラシックな緑の中を上り下りし、鳥羽展望台へ辿り着きます。時節柄、展望台駐車場では半分以上の車室を使って海藻の天日干しをしており、撒かれた海藻が黒々と繁茂して見え、まるで陰毛の森に迷い込んだかのようでした。
ナポリならぬ“鳥羽を見てから死ね”ですな
展望台では観光客やライダー達が憩い、伊勢湾の雄大な景色を楽しんでいます。ここから見る太平洋は青く美しく、海の茫洋たる広さを感じる事が出来ます。快晴の日は遠く富士山まで見えるとの事でしたがあいにくこの日は水平線が靄で霞み、山頂を拝む事は叶いませんでした。南東の湾岸を眺め稜線の彼方に控えているであろう大王埼を捜しましたが、地形まで詳しくはないのでどれがどれだかわかりません。そもそもここから見えるものかすらあやしいのですが、気持ちが高揚しているのでもうどうでもいいと思いながら景色を堪能致しました。陳腐ではありますが“一大パノラマ”という表現はここ鳥羽展望台の為にあるのだな、とさえ思いました。土産物売り場を覗き(ここでも酒の物色をし)名物の大内山牧場ソフトクリーム(濃厚!)を食べ展望台を後にしました。
 パールロードへ戻り、南へ走ります。沿道では〈カキ食べ放題〉と大書された幟旗がはためいており、シーズンは終わったものの焼きカキやカキフライなどをあつかう店舗が沢山ありました。大好物ですが時間的にまだお昼ご飯の時間でもなかったので諦めました。
海亀が産卵しに来たりもします。
 さてパールロードも終わり、阿児町に出ます。そこから国府海岸を目指し東へ走ります。ここ国府海岸は浜長3kmあり、遠浅の砂浜と程良い波の高さがおあつらえ向きなのか近畿や中部地方からサーファーが沢山集まって来ます。沿岸の町〈国府〉には彼ら御用達の民宿や食堂等も沢山あり、さながら波乗り達のメッカと化していますが、決して雑然とした雰囲気の町ではありません。むしろとても落ち着いて古式ゆかしい佇まいを残した町でもあるのです。家屋はどれも低く造られてあり、海風と塩害への対策なのか防風林の生垣を高くめぐらして整然と建ち並んでいます。それらの合間を細い路地が縫うように走り、迷路のような独特の町並みを形成しており、区画という区画に美しさすら感じさせます。とても落ち着いた景観です。
 海辺で記念撮影をひとしきりした後、昨年訪れた際、気になっていた地元の食料品店に立ち寄る事にしました。看板は無く、壁に山のマークとひらがなで「み」と直に書いただけの店(みやま商店?やまみ商店?)。なんてことない商店なのですが興趣そそる物を感じ、ガラガラと戸をすべらせ中へ入ります。菓子やパン、雑貨類とともにアジのヒラキやめざし等の鮮魚コーナーまであり、レジでは宅急便の受付までやっています。スーパーマーケット未満のちょっとしたコーナー・ショップまだコンビニが全国津々浦々に出来るまではこういったお店が私の地元にも沢山ありました。懐かしい雰囲気に浸っていると店の女主人に話しかけられたので大阪から来た事や、浜の眺めが素敵だという事を話しました。女主人は志摩半島湾岸の美しさを語った後、横山公園からの眺めが絶景だと教えてくれました。夕日に暮れなずむ英虞湾が見られるとのことであります(ちなみに地元の人間は英虞湾側を裏の海と呼び太平洋側の海を表の海と呼ぶそうです)。
 女主人からしばし地元話を聞いた後、缶コーヒーを買って出ました。また真夏の灼熱の日にアイスでも買い食いしに来よう。小学生の夏休みに訪れた田舎のばあちゃんちの、そのまた近所にある雑貨店、そんな感じのするどこか懐かしいお店でありました。
 寄り道もさておき大王埼を目指して走ります。が、ここからは交通量の多い国道を避け海沿いの生活道路を南へ下る事にします。細い一車線のみの道を走り、ときどき現れる対向車を避け、海辺の町の風景を楽しみます。ブロック塀の隙間に網を干していたり、日陰でたむろする地元の老人達や時代ものの乳母車に荷物をのせ坂道を器用に上っていくおばあちゃんの姿など、圧倒的に老人が多いけどみな日焼けして頑健で逞しい印象でした。
 バス停や町名表示等のサインに〈大王町〉と出てきたら、もう近くです。ただここから灯台までの道が分かりづらい為(地元の人に聞いて行くべきとガイド本にもあるくらい)いつ来ても迷いそうになるので記憶の糸を手繰り寄せながら慎重に走ります。今回はなんとか無事大王町は波切漁港に到着です。やはりゴールデン・ウィークの為、車や人が沢山集まっていました。いつもの駐車場に行くと顔なじみのお姉さんが迎えてくれました。この方もとは大阪の方なのですが地元の漁師の方とご結婚されこちらに移り住んでおり、家事の合間ここの駐車場管理を担当しているとの事です。聞けば5月4日にここ波切漁港で“カツオ祭り”が行われるとの事です(旦那さんは祭に備えて和歌山沖までカツオ漁に出ているとの事でした)。姉さん曰くカツオは地元で食べるのが一番、味が格段に違うのよ、との事。たしかに言われてみればカツオを使った伊勢志摩名物〈手こね寿司〉はこの辺りの漁師料理が発祥です。本場中の本場は格段に違うのだろう。こりゃ是非賞味せねば、と思いたい所ですがこちとら5月3日に帰阪予定でした。残念であります。次回は必ず日本酒とともにカツオを堪能したいものだ…等とぼやきつつ、とにかく灯台へと向かって歩きます。土産物を売る店が並ぶトンネル状の坂道を上るや大王埼灯台が見えてきます。崖に聳える白亜の塔、といった趣。
昇らんかな!
 以前には無かった灯台博物館という施設が併設され、灯台周囲のアプローチも綺麗に整備されリニューアルしていました。灯台内部のらせん階段を昇り、バルコニーに出て潮風を全身に浴びます。ぐるり太平洋を眺めますがいつ来ても足ががくがくと震えます。この灯台は海辺の崖の上に立っている為、高所感覚が凄まじいので風圧を感じる度、吹き飛ばされるような感覚に陥るのです。今まで何度もバルコニー一周をチャレンジしてきましたが、いつも足がすくみ早々に灯台から逃げ下りてしまいます。ところがこの日は違いました。頼りなさを感じていた以前までの鉄柵の替わりに、新しく頑丈そうな鉄柵が設えてあるのです。おかげで安心感が増え、勇気も湧いてきました。なんとか時計周りにバルコニーを一周した後、東側に立ち止まって暫し太平洋を遠くまで眺める事が出来るようになりました。沖合ではヨットが波間をたゆたっております。あの中では今頃、ヨットオーナーが美女とシャンペンなんかを楽しんでいるのだろうか…、なんて妄想をもて遊んでは高所の恐怖を紛らせました。
地球は丸く、海は広い。
 灯台を下りた後は併設の灯台博物館を観覧しました。その後、近くの波切神社まで海辺を散策します。大王町は灯台以外にも〈絵かきの町〉として知られており、油絵サークルの人達が写生に訪れたり、中部地方や近畿地方の学校の美術部がよく合宿に訪れたりします。この日は学生はおらず中高年の油絵サークルの方々がデッサンをしているのみでした。イーゼルを立てていたり、クロッキー帳をひろげていたりといった光景はここではよく目にします。
 ひとしきり漫ろ歩いていると野良猫と出会いました。茶トラのチビです。こいつはカメラで撮られていると気付くや逃げもしないで寄ってきます。よく見ると喧嘩に負けたのでしょうか片目が潰れています。もう片方の目もうっすら膜がかかったようになっています。でもそんなことは当の茶トラ坊やは気にもしていないように甘えてきます。しばし近寄って撫でてみますと私の膝に乗るわ指を噛むわ体を登ろうとしたり、私の顔にぐんぐん近づいて来ます。私がのけぞるとここぞとばかりに上におぶさって来ます。なんて積極的な子なんだ。横に移動するとまたついて来てじゃれて来ます。おかげで服は毛だらけです。しばらく付き合って遊びましたがずっといるわけにはいきません。『んじゃな』と暇を告げ別れますが、みゃみゃみゃと鳴きながら私の後をついて来ます。胸をしめつけられる思いで追い払いますがやはりくっついて来ます。がやはり、連れて帰る事は出来ません。速足で逃げるように歩くと、ある時点で鳴き声が途絶えました。振り返ると道端に立ちつくしじっとこちらを見ている茶トラ坊やの姿がありました。諦めたような寂しい佇まいの茶トラ坊やが、私が歩を進める毎に小さくなって行きます。ありがとう、さようなら。いい飼主に出会えますように。
 大王町を後にし、本日の旅の最終メニューである志摩半島の突端、御座白浜までべスパを飛ばします。英虞湾を横目に走り、潮風に塗れる道すがら、この辺りが志摩半島で一番ジュラシックな光景が続いている事に気づきます。シダ類と照葉樹が繁茂して森を作っている為ひょっとすると恐竜でも出て来るんじゃないか、なんてアホの様な妄想におぼれそうになります。ただ、鳥羽で化石も発見され〈鳥羽竜〉と名づけられているくらいなのであながちアホとは言えませんが…。
御座にて
 御座漁港に着きました。バス・ロータリーがそのまま広場のようになっており、ロータリーを取り囲むようにして民宿と干物屋と喫茶店と海産物加工場が建ち並んでいます。もしこのロータリーにて事件や事故が起こるといっぺんに町中に知れ渡るように出来ています。それくらいここが御座の中心地となっているのが分かります。漁港の雰囲気を楽しみ釣り人や海の色や潮の香りを楽しみます。夕暮れが近づいていた為ここは早めに切り上げ帰る事にします。昼間はいいのですが暗闇の中、高低差があり曲がりくねったパールロードを走る度胸を持ち合わせていなかったからです。これでしかも後ろから高速車に追い立てられようものならもう怖くてやってられないでしょう。
 パールロードを志摩から鳥羽へと戻り、そのまま宿へまっすぐ帰ろうと思いましたが、空腹感と疲労から甘いものが欲しくなり、赤福を食べに鳥羽市内に寄り道する事にしました。赤福鳥羽支店前に辿り着いたものの駐輪スペースが線路の向こうにあるとの事で回り道して駐輪しに行きました。へとへとになりつつも糖分欲しさに地下道を走り、店へ行くやガラス張りの店舗内に客は一人もいません。もしやと思い中を見ると店員が帳場から近づいてきて『今日はすべて完売となりました』と仰られた。ごーん。頭の中で鈍い音がしました。
 そこからは意地です。うおおおおあかふくあかふくあかふくう~と糖分欠乏の餓鬼と化しアクセル全開べスパをすっ飛ばします。食欲に衝き動かされ燃え盛る火の玉となって二見に戻るや、大江寺YHへ戻らず、二見シーパラダイス内土産物売り場にある赤福に突進します。勘定場では既に本日の売上の集計に入っておりました。ここもか!と一瞬愕然としたものの「まだいけますか?」と尋ねたところ、御土産の方は売り切れましたが、店内での飲食ならまだ可能ですとの事であった。よっしゃー!…という事で今回ようやく伊勢志摩に来て初の赤福を賞味する事と相成りました。もちもちした食感に甘いこしあん。熱い伊勢茶が最高にマッチしています。糖分は沈静作用でもあるのか食後は恐ろしく落ち着いたジェントルメンとなっていました。恐るべし赤福。
 さて大江寺YHに戻り、大部屋にて布団を引き直します。大阪から自転車で来た男の子が先にチェックインしていたので一番風呂を勧めました(ここは風呂も共同なのです)。カラスの行水なみに速く風呂からあがってくれたので私も二番手に風呂へ入りました。風呂から上がるやユースの女将さんがやって来て『今夜は大部屋に合計7人泊まるし混乱するだろうから先に布団を並べとこうか』と仰られた。そして女将の号令一下布団の出し並べを手伝わされました(俺も客なんだけどな…)
 その後いつもならば他の宿泊客と台所で消灯時間まで駄弁るのですが、この日は起床時間も早かった上、志摩半島一周の旅をして疲労の極みにあった為、布団を被ってちょっと横になって休憩しているうちに眠りの世界に引き込まれていました。たしか夜8時くらいだったはずですが、そんな早い時間に寝る事って幼児以来の貴重な経験であります。

その3へ続く…

2011年1月19日水曜日

VESPAでお蔭参り その1

2011年も明けて寒い日々が続いております。家から一歩も出たくないこんな日こそ、いずれ来る暖かい日に向けて旅の計画を立てておくのはいかがでしょうか。今回はその一助にでもなればと思い、昨年の伊勢志摩旅行記をアップする事に致しました。題して“VESPAでお蔭参り” 三部に分けてお送りしますのでよろしくどうぞ。

ゴールデンウィーク初日。5月1日の朝7時40分頃、愛車のべスパP200Eに跨り大阪を出発。これから二泊三日の間、二見は大江寺ユースホステルを拠点に伊勢志摩を巡るのだ。大和川を越え堺に入り、2号線から309号線へ折れて富田林へと南進。ひた走る事一時間もすれば水越トンネルに着きます。この水越峠に掘られた全長二キロ程のトンネルを抜けると奈良県に入ります。天気は快晴でしたがやはり朝の放射冷却と風圧により体は冷えてしまいました。どうにかしないとこのまま伊勢まで走るのはつらいと思い、吉野は大淀町のホームセンター・ダイリキに立ち寄り紳士用パッチを買いトイレで履きます。念には念を入れ防寒用にレインコートを被り再出発です。途中、吉野のコンビニで朝ご飯を買い、吉野川河川敷にて朝食です。

 吉野から東吉野村へと入り、川沿いの山道をひた走ります。この辺りは吉野杉の産地という事もあり林業が主幹産業なのか製材所や加工所が目立ちます。空気に木の香りがふんだんに含まれており走っているととても清々しい気持ちになります。窪垣内と書いて〈くぼがいと〉と読む交差点や小栗子と書いて〈おぐるす〉と呼ぶ町を越え、ニホンオオカミの像や、天誅義士の墓(終焉の地と書かれていました)を横目に山間の道をずんずん突き進みます。しかし、どんな田舎であれ酒屋はあり、そしてもれなく地酒の看板を掲げています。それらを目にするにつけ停車して寄り道したくなりますが、それはまた別の機会にという事で旅を急ぎます。前方に“樹氷”で有名な高見山が見えてくるといよいよ奈良と三重の県境です。この山に掘られた高見トンネルを通過するともう三重県です。
三重県に入りました!
 さて三重県内に入って次に目指すのが休憩ポイントである道の駅〈飯高駅〉です。ここは地域最大の商業施設で、地元で採れた農作物や狩猟物畜産物を売るマーケットだけでなく、レストランや温泉施設も充実しており、観光客やドライバーやライダーのパーキングエリア以外に地元の方の買い物場所でもあるのです。私がここへ来た際必ず買うのが草餅です。この草餅が今まで食べた草餅の中でも群を抜いて美味しいのです。餅は歯ごたえを感じさせる程に米が凝縮されていて中の粒餡も甘さが程良く控えめ。奈良や大阪でも草餅を食べることはありますがどれもぐにゃりと頼りない食感にやたら甘いだけの餡ばかりでこの飯高の草餅とは比べ物になりません。ここ道の駅〈飯高〉に来る機会があればぜひ食べていただきたい一品です。


いざ行かん伊勢路
 休憩も束の間、飯高駅を後にひたすら伊勢を目指します。…ですが、ここからはもう一時間程で着きますので、景色を眺めながら道草を食うくらいの余裕で行きます。飯高から大紀町、大台町、度会町辺りにかけては伊勢茶の栽培が盛んで至るところに茶畑があり、それら茶葉に新鮮な空気を送る為の風車が沢山設置されています。晴れた五月の空の下でゆっくりとプロペラを回している風景が長閑であります。水もきれいで周辺を流れる櫛田川のせせらぎは陽に照らされ澄んだエメラルドグリーンの輝きを乱反射させています。べスパを停め、橋から川面を覗くと流れにたゆたう魚影を沢山楽しめました。


 路をずんずん突き進み、伊勢に近づきます。宮川沿いの道路をひた走り、度会橋で国道へまがるともう伊勢市内です。
 ・・・と、ここで腹の虫が鳴ります。伊勢神宮外宮に着いたものの、今回は手水場で手を清め第一の鳥居前で拝むだけにしておきます。何度も訪れているので今回は参宮を端折りました。神様すいません。とてもお腹が減っていましたもので…。とにかく昼食をとろうと河崎町にある伊勢うどんの名店〈つた屋〉さんへ向かいます。地元の方に尋ねながらなんとか辿りつくも、店は大繁盛しており、しばし並ぶ事に。ようやく席が空きましたが見ず知らずの女性と相席です。面映ゆいとはいえ何も喋らないのもかえって気まずいので註文したチャーシューのせ伊勢うどんが来るまでの間、世間話をしました。そしてうどんが来るやいそいそとたいらげ、勘定を済ませ店を後にします。ところが何か附に落ちません。思ったより高額だった気がするのです。今まで食べた伊勢うどんの中では断トツで高い。やはりチャーシューが載ると高くなるのか…と思いましたが、ここではたと気付きます。なんと相席の女性の分まで代金を支払っていたのです。どうりで勘定場のおばあちゃんに「ご一緒で?」と尋ねられたのか合点が行きました。カップルと勘違いされていたのです。何をご一緒なのか分からなかったのでとりあえず「はい」と答えていた私もおかしいのだが…。我ながら本当に阿保である。

猿田彦神社
 何はともあれ腹拵えを済ませたのでいざ、伊勢神宮内宮を目指します。ですが、まずは神宮手前にあります猿田彦神社から先に訪ねます。猿田彦様は“みちひらき”の神ともいわれており、母が喫茶店開業の際、こちらで奉納祈願をしましたので私も神宮参拝の際は折を見て立ち寄るようにしております。参拝後は同社内に祀られているさるめ神社も参拝します。こちらは”さるめ様”こと天鈿女命アメノウズメノミコト)様をお祀りしている神社です。古事記によると天の岩戸に籠った天照大神を引っ張り出す為、文字通り、ひと肌脱いで踊りまくったという女神様で、芸人や俳優といった、芸能の神とされています。猿田彦様とは夫婦の間柄ともいわれております。

 さていよいよ伊勢神宮・内宮です。日本人の総氏神である天照大神様を祀るだけあり、参拝者が続々と詰めかけて来ていましたがゴールデン・ウィーク初日ということでまだ混雑を極めるという程ではありませんでした。新しく架け替えられた宇治橋を渡り、神域である宮内に足を踏み入れます。一歩、一歩、玉砂利を踏みしめ歩き、五十鈴川御手洗場のせせらぎにて手を濯ぎ清め、息を吸い、吐き、見て、祈る…。それだけで日常生活で心身に纏わりついた夾雑物が抜け落ちていくような気がします。樹々の隙間から漏れる日差しはやさしく降りそそぎ、往古から変わらぬ杜の佇まいがやさしく迎え入れてくれます。そして歩くうち何か大きなものに抱かれているような不思議な感覚に捉われるのです。二千年という時の間、我々の先祖が祈りを込めて巡拝した地にいる、こう思うだけで自然とこの地に対する恭敬の念が沸き起こるのです。

 ご正殿に拝礼を済まし、宮内をそぞろ歩いた後、神宮を後に。おはらい町にて地酒とそれにあう酒器を捜してうろうろします。何軒かの酒屋を見て回り、神宮奉納御料酒である〈白鷹〉と伊勢界隈でシェアNo1という〈鉾杉〉が気になりましたが荷物になるのですぐには買わず、一旦おはらい町中程にあるおかげ横丁へと向かいます。伊勢に来て食べ歩きをしないわけには行きません。まずは〈豚捨〉にて名物のコロッケとミンチカツを食します。あつあつでほんのり甘いコロッケとジューシーで肉汁溢れるミンチカツ。どこか懐かしい味わいに舌鼓を打った後、露店にて牡蠣のコロッケボールなるものも試し〈モクモク・ファーム〉のマスタード・フランクをも食してみます。昼食後というだけあってもう満腹です。人でごった返すおかげ横丁を脱出し、赤福本店も(何度も来ているので今回は)スルーし、酒屋巡りを再開。伊勢を代表する地酒〈おかげさま〉の蔵元直営酒屋へと足を運びます。ここはお酒だけでなく陶芸家や硝子作家の制作した徳利や御猪口やグラスなどを商うギャラリーを併設しています。そこで様々な御猪口を見ましたが、イメージするデザインの物はありませんでした。店内にて立飲みも出来、一合呑みたくなりますがバイクで来ている為泣く泣く店を出ます。その後も何軒か回った上で、地酒〈鉾杉〉と〈三重桜〉のワンカップを試しに買うことにしました。
一生に一度はお伊勢参りって言いますわな
 
 時間も頃合いもよくなって来たので宿であるユースホステル大江寺へと向かいます。大江寺は二見浦近く〈江〉という町の小高い山の中にあります。予約を入れた時はすでに満杯と聞いていたのに蓋を開けてみたら大部屋に私を入れて三人だけ。奈良市からバイクで来た男の子と神奈川県厚木市から自転車で来た男の子と私のみ。他の部屋には千葉の市川から来たという女の子が一人いるくらいで計4人のみの宿泊でした。なんとも肩すかしであります。ともあれ夜は食堂にて相部屋三人衆と女の子を加えて会話を楽しみます。この宿の最大の魅力は見知らぬ者どうしの情報交換にあります。この日はたまたま日本人のみの宿泊でしたが、世界中から観光客が泊まりに来るので出会いもあれば面白い話やカルチャーショックも楽しめたりするのです。奈良の男の子がハイボール缶をやり始めたので私も、試し買いした〈三重桜〉のワンカップを開けつき合いました。なかなかしっかりとした旨口に旅の疲れが睡魔と共に襲って来ました。結局その日は夜更かしすることもなく消灯とともにおひらきとなりました。


その2へつづく…

2011年1月14日金曜日

楽しい飢餓(あるファースト世代の記憶)

 30年前、ガンプラ飢饉というものがあった。ガンダムのプラモデルが一大ブームとなり、需要に対して供給が追いつかず国内工場のラインを整える為、メーカーが一時期生産をストップしてしまったのだ。当然、模型屋という模型屋を虱潰しに捜索したがまったく手に入らなかったし、次の入荷までの日々は訳のわからんプラモや消しゴム人形(通称“ガン消し”)でお茶を濁したし、入荷したら入荷したで大パニック!30分でほぼ無くなり、出遅れた奴には『武器セット』か登場人物の『フィギュア』くらいしか残っていなかった。あの渇きったらない。ファースト・ガンダム世代の大半はこの未曾有の”渇き”を体験しているはずである。

 で、そうやって苦労して手に入れたガンプラも、今考えるとシェイプやシルエットが洗練されてたわけでも、関節がフル可動したわけでも、ハッチやキャノピーが正確に再現されてたわけでもなかった。どちらかといえばまだ野暮ったく角ばったおもちゃ的シルエットを残していた。これは戦車や戦闘機といったスケールモデルの世界から流れて来た模型ファンにとっては大いに落胆させるものであった。ところがそこを逆手にとり(模型誌や少年誌発信であったが)ガンプラを改造して遊ぶというのが流行った。ヤスリで削いだり、パテで盛ったり、工夫していかにリアルに見えるように作るかが面白さでもあった。ジオラマなんてのもその一環だった。改造方を指南する漫画や本が飛ぶように売れ、コンテストも各地の模型店などで開かれたりした。それはキットが不完全であったが故に成立したムーブメントで、物足りなさという“渇き”があったからこそ生じた楽しみだった。

 思えばプラモのみならず、あのファースト・ガンダムのブーム自体がファンの“渇き”から作りあげられていた。本放送時、斬新で大人びたストーリーにもかかわらず夕方5時という小学生向け放送時間帯ゆえ苦戦し最終的には低視聴率で打ち切りとなった。この事はその先進性に気づき早くから追いかけていたファンの間で最初の”渇き”を起こすきっかけとなった。マニアックなファンの手によるファンジン制作や自主上映会や署名活動が起こり、それらの”渇望”は各地の放送局を動かし、再放送が始まる事になった。ここから破竹の快進撃が始まる。まだ一部の富裕層や愛好者を除きビデオ・デッキを持っている家庭は少なかったから(見逃したらおしまいである)皆必死になってテレビにかじりついて見ていた。そして、そうやって視聴した“ガンダムの世界”を頭の中で何回も何回も再生し、頭の中の像が擦れて来るとおこづかいで買ったガンダム本を読んだり、駄菓子屋で買ったシールを眺めたりして補完しつつ、何度も楽しんだ。そうやって皆”渇き”をちびちびと潤しながらブームを形成する事に加担していったのだ。そしてそれらは”映画化3部作”という形で一旦は昇華されるのである。


 翻って今の時代はアニメに限らずドラマでも放送期間中に、シーズン1、シーズン2とDVDが発売され、本放送が最終回を迎えても、レンタル屋に行きソフトを借りればすぐ作品の世界に戻れるようになっている。場合によってはインターネットで好きな時にいつでも見られるから、テレビにかじりつく必要もない。おもちゃにしたって街の模型屋を虱潰しにあたらずともオンラインのショップを検索すれば一発である。これは一見いい時代になったようにも思えるが、可哀そうでもある。何故なら“渇く”ことがないからである。
 
 乏しい情報しか手に入らず、枯渇感を感じると、補完したいという激しい欲求が生まれる。欲求に刺激された脳は想像(創造)を始める。その希求の度合いが高ければ高い程、イメージの世界を楽しむ事が出来る。シールやメンコに描かれたどんな小さな断片であれ、脳の中で反芻される事で、とてつもなく新しい世界へと膨張していくのだ。それは快楽でもあるのだ。
 今の時代、どんなに素晴らしい作品でもムーブメントや一大事件にまで発展しないのはそれが快楽の地点にまで到達できない仕組みが出来上がってしまっているからなのである。いとも簡単に手に入るから、思いつめる情熱も、妄想を抱く必要もない。充実した環境に成長を阻害されているのだ
 だからさっぱりとした受け止め方で終わるのが関の山なのだ。素晴らしい作品でも累計出荷数云百万個といった数字の成績しか残せず、ましてや今後の古典にすらなりうる作品へと昇華されるのは難しいだろう。
 もしかしたら今後、魅力的な作品程、ある種の”欠乏”という余白が求められるようになるかもしれない。紙と紙を貼り合わせる為の“のりしろ”の様に、人が作品を追いかけたくなるような“追いしろ”が必要なのかも知れないのだ。それは初回限定生産とか限定云万枚といった数の制限といった単純なものではない。求めて止まなくなる余白が必要なのだ。案外、課題はこういった部分にあるのかも知れない。
 余談になるが当時、祖母からクリスマスにガンプラをプレゼントされた事があった。街中の模型屋をあたっても手に入らず諦めていた所へ、祖母が何箱も持って突然やって来たのだ。あの時のおばあちゃんの“どや顔”は最高に格好良かった。『持って来るの大変やったのよ、もう~』なんて悪態つくサンタでしたが昨年末(2010年)無事天寿を全う致しました。もらった心の“潤い”は一生忘れません。ありがとう。

2011年1月10日月曜日

うどん・フロム・ビッグ・ピンク

  大阪は千日前にある『信濃そば』に行って来た。寒い夜はうどんに限る。近くの赤垣屋で淡麗を軽くやり、最後に温い麺でシメたくなったのだ。木枯らし吹く中、宵戎とアジア・カップ観戦の酔客に揉まれながら歩く事数分。千日前のアーケードが途切れた辺りに店はあった。ガムテ―プで補修した袖看板や手製のお品書を貼りまくったDIY極まりない外観。店に入るや、袢纏をまとった後期高齢者夫婦が出迎えてくれた。大将と大将婦人である。私の註文に大将はいそいそ曲がった腰でとりかかってくれた。
厨房とフロアの境界がなかなか曖昧な内装…。風が戸の隙間からぴゅーぴゅー言うが男なら気にするな。
もちろん、ここでも肉うどんを注文。
尻に火がつく程、七味を振る。葱の切り具合が絶妙。

出て来た時点で唾液腺が唸りまくる。香りが半端ではない。だが、はやる気持ちを抑え、まずは御ダシをひとすくい…
馥郁とした昆布の香り!
湯気の中、至福の北前船が出航する!(?)


ダシをすすってすぐ、ご飯を註文しなかった事を後悔した。ご飯と玉子を放りこんで雑炊にしたくなる程いいダシなのだ。もう我慢は御免だ。あとは一気呵成に啜る!咀嚼!嚥下!噎せる!くしゃみ!…啜る!咀嚼!嚥下!…

うどんは典型的な“大阪うどん”つるつるとした食感。喉越しが最高。
ごちそうさま。やはり残りダシで雑炊にしたかった…
完食である。『嗚呼、うめ~』等とつい白々しくも声に出してしまったが、店主は私の感動などどこ吹く風、カレーうどん用のカレー粉を缶に詰める作業に勤しんでいた。御会計をお願いしてもカンカンカン…と粉を底に落とすべくスプーンで缶を叩き続けている。カンカンカンカン…。もはや無我の境地だ。ならばと先程までいた大将婦人を探したが婦人はどこかに消えていた。自由過ぎる…。

決して今どきの“うどん”ではないが、流行り廃りには無縁の普遍的味わいにノックアウトされました。まるでザ・バンドかCCRのようなうどんである。巷にあふれる讃岐風の強コシに飽きた方はバック・トゥ・ルーツで一度お試しあれ。


信濃そば
〒542-0074
大阪府大阪市中央区千日前2丁目8−10

2011年1月9日日曜日

イメージ誘発装置としての音楽―The Collage版 "Can I Go" について

The Collage "Can I Go" を聴く。
オリジナルはロジャー・ニコルス&スモール・サークル・オブ・フレンズ。本家のスピーディーさとはうって変ってミドル・テンポ。コーラス・アレンジも大胆に施されている。それ故、最初耳にした時、オリジナルが持つイメージとのあまりのギャップに嫌悪感すら沸き起こりました。洗練された感覚が削ぎ落されて、替わりにどこか野暮ったい、カレッジのグリー・クラブ的匂いが芬々としたのです。聴いてはいけないものを聴いてしまったような悪寒を感じたのです。

 ところが好きと嫌いは表裏一体である。余程印象が強かったのか、この“キモ優等生”的な"Can I Go" はしばらく頭から離れませんでした。YouTubeでのシャッフル機能を使いBGMとして流し聴きするうち、こちらのヴァージョンの方がより男女のハーモニー・アレンジに力点を置いている事に気づくようになって行きました。そしてそれにより本家とは違うイメージを誘発するのに成功している事も思い知ります。個人的印象を語ると、若い男女が夏の日差し輝く荒野を地平線に向かって歩いているイメージが想起されるのです(この辺は妄想入ってますがお許しくださいw)幾重にも折り重なるハーモニーがミルフィーユのように甘く、上質なメロデイが心の地平に太陽を呼ぶ。おかげで今や本家よりも愛聴するようになってしまいました。

 やはりみんなで歌っているグループが好きだ。ラウドだろうがポップだろうが、勇ましかろうがめそめそしていようが、ハーモニーは耳にとってごちそうなのだ。低音と高音が共鳴する瞬間や、別々のメロディが同じコード上で並び交錯し一組の旋律を作り上げる瞬間、心は高揚しイメージの彼方に飛翔していくのだ。
 そして音楽こそが、イメージというどこか遼遠な世界へ誘ってくれる装置であり、その事を再認識させてくれるのがこのThe Collage版 "Can I Go"なのである。 

2011年1月7日金曜日

可否のうっちゃり。選択肢の繁殖。

 『パウル・クレー観に行って来てん』
 御近所に住むHさんが抽象画の展覧会に行って来たという。このおばちゃんから『クレー』の名を聴くなんて晴天の霹靂。およそ芸術とは縁遠い人物の発言に驚いていたらHさん『絵なんて全っ然興味ないねんけどな』と吐露する。どうやらタダ券をもらったようだ。なるほどただの暇潰しだったか。そう思って話を聴くうちにHさんはこうも言った『なんやようわからんけど…世の中にはこんなんもんもあるねんなあ…』と。この一言を聴いた瞬間、私は雷に打たれたかのようにある事に気づいた。それは…


 不可解な事象も、認識さえしておけば、いずれ新たな選択肢の一つとなりうる。


 …と。
 例えば近・現代美術である。印象派、ダダイズム、オプ・アート、未来派、シュールレアリズム、ジャンク・アートetc…発表当時、衝撃と賛否をもたらしたこれらのコンセプトも現代ではさほど目新しくもない。ポップアートの作品群にいたっては根幹である“大量消費”の意図通り、今や世俗の意匠に反映されて久しい(それっぽいTシャツを量販店で目にする事さえある)。それらはもはや不可解で“物議の種”であった時代を通り過ぎて今や“選択肢の一つ”にまで成長したと言えよう。そしてこの事は良かれ悪しかれ人々の認識と受容の歴史でもあるのだ。


 故に理解を超えた“モノ”を前にした時、まずは否定・肯定を(極力)棚上げにする事をオススメしたい。自然物を認識した時と同様にありのまま受け入れる事で、次回からこういう事(モノ、現象含む)も“あるのだ”というシナプス(神経細胞)経路が出来、行動の選択肢にヴァリエーションが増えるはずだからだ。要は“うっちゃっておけ”ということである。


 もちろん“嫌い”が勝ってしまう場合がある。無理もない。その時の精神状態に合わなかったり、生理的に受け付けないものは世にゴマンとある。但し、決して、嫌い=否定ではないのだ。嫌いになるというのは余程、印象が深かった事の証左でもある。これがある時ドミノ倒しのように、雪崩を打って正反対の感情へとひっくり返る事はよくある話だ。だから“嫌い”という感情はむしろ理解を超えた物を前にして【今まで築いてきた世界が崩されるかもしれない】という恐怖からセルフ・ディフェンドしているに過ぎず、受容の変形と捉えるべきだ。


 『芸術なんて解らねえ』『しゃらくせえ』と仰る方でも、作品に接する事で、脳に沢山の“種子”を植えられて家に帰っているはずである。それら経験として蓄積されたものは無意識下で萌芽し、育ち、いつしか“許容範囲”というものを押し拡げているはずである。


 そしてそれ故、(自戒を込めて申し上げると)作家や表現者の側は作品やパフォーマンスを過剰なまでに露出した方がいいと思うのだ。クソん味噌んに酷評されても構わないから顕現させるべきなのだ。稚拙極まりない物でも産み落としたのならば、愛される事を信じて白日の下に晒してあげるべきなのである。


『なんや、ようわからんけど。こんなもんもあるねんなあ…』この一言こそ、おばちゃんの脳裡で前衛が日常になった瞬間です。観る側にとっても顕す側にとっても希望に満ちた発言である。

2011年1月6日木曜日

ワナ・ビー・ア・マエストロ

 親父が亡くなった後、遺品整理をしていたら縄で縛られた女性が悶絶する類の小説やDVDが山と出て来た。
 恥ずかしくてブック・オフにも持って行けなかったのか、さりとて捨てるのも悪いと感じたのか(捨てろよ)母は私を実家に呼びつけ『遺族を代表してあんたがこれらを貰いなさい』ときた。あんな遺産相続ってあるんだろうか。
 
 とはいえ私も男だ。亡き父の形見に緊張(わくわく)しながらも目を通す事にした。一体どんな助平…もとい、内容なんだろう、と。どきどき…。
 
 ところがその内容は私が想像していたものとまるで違っていた。
 “匠”と呼ばれる男達が縛り方の美しさを競い、出来上がった作品を360度ゆっくり見せるというだけの、まるで【生け花コンペ】のような内容か、或いは延々結び方のテクを指南する【教則ビデオ】のような内容ばかりだったのだ。助平ゼロ。世のAVとは一線を画す、本当の意味で耽美を追究する人向けのビデオ。玄人向けHOW TO ビデオだったのである。
 
 私は職人達の腕前にぽかーんとなりながら思った。親父は“縄師”になりたかったに違いない、と。


 かように、どこの家庭にも知らなくていい闇の部分があるのだ。ww



2011年1月4日火曜日

仕掛け

 釣り好きだった小学生の頃、一人で延岡の祖父の家に泊まりに行った。釣りに詳しかった祖父は仕掛けを買ってやる、と私を近所の雑貨屋に連れて行ってくれた。
 
 『釣りんコツば仕掛けにあるとよ』
 
 祖父のこの一言には重みがあった。長年、延岡の山で暮らしていただけあって川魚の習性を知りつくしているのだ。糸とルアーさえありゃいいと思っていた都会育ちの私には祖父の姿が頼もしく映った。今日は一体どんな魚が釣れるのだろう。胸は高鳴るばかりであった。
 
 その雑貨屋は祖父の友人“たけやん”の店だった。たけやんは挨拶がわりにコップに酒を汲み、祖父に差し出した。祖父は仕掛けの『し』も言わずコップ酒に手を付けぐいっと呑み、たけやんと駄弁り出した。もちろん田舎の雑貨屋に客などいない。
 
 店の前にたけやん手製の池があった。『鯉を眺めといで』と言われ小一時間ほど錦鯉を眺めた。だが一向に宴が終わる気配はない。


 孫を放擲し老人達は呑み続けた。祖父はもう何を買いに来たのかさえ忘れていた。その姿を見て小学生ながら合点が行った。酒癖も悪く日頃飲酒を咎められていた祖父は私が来た事で呑む口実が出来たのだ。祖父にとって私はばあちゃんを欺く為の“仕掛け”だったのだ、と。

夢の伊勢うどん

讃岐うどんの対極にあるようなふんわりとしたコシに初めは驚きましたが、今や病みつきです。伊勢に行くと必ず食べるようにしています。伊勢うどんの歴史は古く、江戸時代以前に地元農家の人が地味噌から出来た「たまり」を少量かけて食べたのが始まりといわれています。写真は山口屋の肉伊勢うどんです。ごはんとセットで註文します。
ワイルドにごはんをぶっ込みたくなるおいしさ。


ついでに山口屋さん潜入ルポ動画も貼っておきましょうか。

名代 いせうどん 山口屋
〒516-0072 三重県伊勢市宮後1-1-18
営業時間:10時~19時
定休日:木曜日(祝・祭日は営業)

詩心

 詩は芸術全般における種子のようなもので、詩心のない歌や絵や映画はない。詩の不在を謳った作品でも、無機を装った有機のように詩を否定した詩が根底にある。詩という核を持たない芸術はタダの筆跡か空気の波か残像である。イメージは起これども育ちはしない。種子が失われているのだから。

 詩心のある人なら、ただの断片を見つけてもそこから何かを想起し、別の物を生み出せる。いい料理人は素材をおいしく仕上げるだけでなく、やはり食べた者をイメージの彼方へと連れて行ってくれる。その素敵なシェフが料理に“詩”をまぶしてあるからだ。

 タダの腹の満たし物に終わるか芸術作品にするかはシェフの“詩心”次第である。
 

はじめまして

2011年も明けて4日目。ブログを始める事にしました。タイトルは『キョべ屋縁起』過去のあれこれ(詩・小説・動画・写真等)に日記や情報、怪情報、怪文を纏めたものにしようと目論んでおります。皆様、何卒よろしくお願い致します。
きょーべい

テスト

タイパンツありがとう。これからもよろしく。そしてジョカをまた楽しもう。