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イラストレーター、DJ ヨシダキョウベイ[Kyobei]/大阪芸術大学美術学科中退/伊勢志摩マニア お仕事のご依頼は kyobeya@gmail.com まで。

2011年1月14日金曜日

楽しい飢餓(あるファースト世代の記憶)

 30年前、ガンプラ飢饉というものがあった。ガンダムのプラモデルが一大ブームとなり、需要に対して供給が追いつかず国内工場のラインを整える為、メーカーが一時期生産をストップしてしまったのだ。当然、模型屋という模型屋を虱潰しに捜索したがまったく手に入らなかったし、次の入荷までの日々は訳のわからんプラモや消しゴム人形(通称“ガン消し”)でお茶を濁したし、入荷したら入荷したで大パニック!30分でほぼ無くなり、出遅れた奴には『武器セット』か登場人物の『フィギュア』くらいしか残っていなかった。あの渇きったらない。ファースト・ガンダム世代の大半はこの未曾有の”渇き”を体験しているはずである。

 で、そうやって苦労して手に入れたガンプラも、今考えるとシェイプやシルエットが洗練されてたわけでも、関節がフル可動したわけでも、ハッチやキャノピーが正確に再現されてたわけでもなかった。どちらかといえばまだ野暮ったく角ばったおもちゃ的シルエットを残していた。これは戦車や戦闘機といったスケールモデルの世界から流れて来た模型ファンにとっては大いに落胆させるものであった。ところがそこを逆手にとり(模型誌や少年誌発信であったが)ガンプラを改造して遊ぶというのが流行った。ヤスリで削いだり、パテで盛ったり、工夫していかにリアルに見えるように作るかが面白さでもあった。ジオラマなんてのもその一環だった。改造方を指南する漫画や本が飛ぶように売れ、コンテストも各地の模型店などで開かれたりした。それはキットが不完全であったが故に成立したムーブメントで、物足りなさという“渇き”があったからこそ生じた楽しみだった。

 思えばプラモのみならず、あのファースト・ガンダムのブーム自体がファンの“渇き”から作りあげられていた。本放送時、斬新で大人びたストーリーにもかかわらず夕方5時という小学生向け放送時間帯ゆえ苦戦し最終的には低視聴率で打ち切りとなった。この事はその先進性に気づき早くから追いかけていたファンの間で最初の”渇き”を起こすきっかけとなった。マニアックなファンの手によるファンジン制作や自主上映会や署名活動が起こり、それらの”渇望”は各地の放送局を動かし、再放送が始まる事になった。ここから破竹の快進撃が始まる。まだ一部の富裕層や愛好者を除きビデオ・デッキを持っている家庭は少なかったから(見逃したらおしまいである)皆必死になってテレビにかじりついて見ていた。そして、そうやって視聴した“ガンダムの世界”を頭の中で何回も何回も再生し、頭の中の像が擦れて来るとおこづかいで買ったガンダム本を読んだり、駄菓子屋で買ったシールを眺めたりして補完しつつ、何度も楽しんだ。そうやって皆”渇き”をちびちびと潤しながらブームを形成する事に加担していったのだ。そしてそれらは”映画化3部作”という形で一旦は昇華されるのである。


 翻って今の時代はアニメに限らずドラマでも放送期間中に、シーズン1、シーズン2とDVDが発売され、本放送が最終回を迎えても、レンタル屋に行きソフトを借りればすぐ作品の世界に戻れるようになっている。場合によってはインターネットで好きな時にいつでも見られるから、テレビにかじりつく必要もない。おもちゃにしたって街の模型屋を虱潰しにあたらずともオンラインのショップを検索すれば一発である。これは一見いい時代になったようにも思えるが、可哀そうでもある。何故なら“渇く”ことがないからである。
 
 乏しい情報しか手に入らず、枯渇感を感じると、補完したいという激しい欲求が生まれる。欲求に刺激された脳は想像(創造)を始める。その希求の度合いが高ければ高い程、イメージの世界を楽しむ事が出来る。シールやメンコに描かれたどんな小さな断片であれ、脳の中で反芻される事で、とてつもなく新しい世界へと膨張していくのだ。それは快楽でもあるのだ。
 今の時代、どんなに素晴らしい作品でもムーブメントや一大事件にまで発展しないのはそれが快楽の地点にまで到達できない仕組みが出来上がってしまっているからなのである。いとも簡単に手に入るから、思いつめる情熱も、妄想を抱く必要もない。充実した環境に成長を阻害されているのだ
 だからさっぱりとした受け止め方で終わるのが関の山なのだ。素晴らしい作品でも累計出荷数云百万個といった数字の成績しか残せず、ましてや今後の古典にすらなりうる作品へと昇華されるのは難しいだろう。
 もしかしたら今後、魅力的な作品程、ある種の”欠乏”という余白が求められるようになるかもしれない。紙と紙を貼り合わせる為の“のりしろ”の様に、人が作品を追いかけたくなるような“追いしろ”が必要なのかも知れないのだ。それは初回限定生産とか限定云万枚といった数の制限といった単純なものではない。求めて止まなくなる余白が必要なのだ。案外、課題はこういった部分にあるのかも知れない。
 余談になるが当時、祖母からクリスマスにガンプラをプレゼントされた事があった。街中の模型屋をあたっても手に入らず諦めていた所へ、祖母が何箱も持って突然やって来たのだ。あの時のおばあちゃんの“どや顔”は最高に格好良かった。『持って来るの大変やったのよ、もう~』なんて悪態つくサンタでしたが昨年末(2010年)無事天寿を全う致しました。もらった心の“潤い”は一生忘れません。ありがとう。

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