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イラストレーター、DJ ヨシダキョウベイ[Kyobei]/大阪芸術大学美術学科中退/伊勢志摩マニア お仕事のご依頼は kyobeya@gmail.com まで。

2011年1月7日金曜日

可否のうっちゃり。選択肢の繁殖。

 『パウル・クレー観に行って来てん』
 御近所に住むHさんが抽象画の展覧会に行って来たという。このおばちゃんから『クレー』の名を聴くなんて晴天の霹靂。およそ芸術とは縁遠い人物の発言に驚いていたらHさん『絵なんて全っ然興味ないねんけどな』と吐露する。どうやらタダ券をもらったようだ。なるほどただの暇潰しだったか。そう思って話を聴くうちにHさんはこうも言った『なんやようわからんけど…世の中にはこんなんもんもあるねんなあ…』と。この一言を聴いた瞬間、私は雷に打たれたかのようにある事に気づいた。それは…


 不可解な事象も、認識さえしておけば、いずれ新たな選択肢の一つとなりうる。


 …と。
 例えば近・現代美術である。印象派、ダダイズム、オプ・アート、未来派、シュールレアリズム、ジャンク・アートetc…発表当時、衝撃と賛否をもたらしたこれらのコンセプトも現代ではさほど目新しくもない。ポップアートの作品群にいたっては根幹である“大量消費”の意図通り、今や世俗の意匠に反映されて久しい(それっぽいTシャツを量販店で目にする事さえある)。それらはもはや不可解で“物議の種”であった時代を通り過ぎて今や“選択肢の一つ”にまで成長したと言えよう。そしてこの事は良かれ悪しかれ人々の認識と受容の歴史でもあるのだ。


 故に理解を超えた“モノ”を前にした時、まずは否定・肯定を(極力)棚上げにする事をオススメしたい。自然物を認識した時と同様にありのまま受け入れる事で、次回からこういう事(モノ、現象含む)も“あるのだ”というシナプス(神経細胞)経路が出来、行動の選択肢にヴァリエーションが増えるはずだからだ。要は“うっちゃっておけ”ということである。


 もちろん“嫌い”が勝ってしまう場合がある。無理もない。その時の精神状態に合わなかったり、生理的に受け付けないものは世にゴマンとある。但し、決して、嫌い=否定ではないのだ。嫌いになるというのは余程、印象が深かった事の証左でもある。これがある時ドミノ倒しのように、雪崩を打って正反対の感情へとひっくり返る事はよくある話だ。だから“嫌い”という感情はむしろ理解を超えた物を前にして【今まで築いてきた世界が崩されるかもしれない】という恐怖からセルフ・ディフェンドしているに過ぎず、受容の変形と捉えるべきだ。


 『芸術なんて解らねえ』『しゃらくせえ』と仰る方でも、作品に接する事で、脳に沢山の“種子”を植えられて家に帰っているはずである。それら経験として蓄積されたものは無意識下で萌芽し、育ち、いつしか“許容範囲”というものを押し拡げているはずである。


 そしてそれ故、(自戒を込めて申し上げると)作家や表現者の側は作品やパフォーマンスを過剰なまでに露出した方がいいと思うのだ。クソん味噌んに酷評されても構わないから顕現させるべきなのだ。稚拙極まりない物でも産み落としたのならば、愛される事を信じて白日の下に晒してあげるべきなのである。


『なんや、ようわからんけど。こんなもんもあるねんなあ…』この一言こそ、おばちゃんの脳裡で前衛が日常になった瞬間です。観る側にとっても顕す側にとっても希望に満ちた発言である。

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