三平は過日オートバイを購入したばかりなので恐らくはそれに跨って来るだろうと思いきや、GジャンにGパンといったおよそ冬の運転には頼り無いであろう出で立ちで玄関に現れた。どうやら吹きすさむ十二月の風に耐えきれず新車の御披露を諦め、いつもの軽自動車でやってきたのだった。
開演時間まで二時間ほど余っていたので三平を部屋に招き入れ、バイクの話を皮切りにしばらく駄な話を繰り広げた。しかし話が伊藤のバンドの事から伊藤の嫁の事にまで及ぶと自分の口調が愚痴めいた物になっているのに気付き、自重すべく話を切り上げ、全国御当地味巡り的TV番組を見た。おかげでお互いに空腹感を覚え、ライブ観覧前に飯でも摂ろうかと早めに家を出ることにした。
玄関から軽の助手席に着くまでの間、私はこの冬一の寒風に吹かれながら三平が単車をやめにして正解だと実感していた。シートベルトをしめながら三平は白い息を少し弾ませ、こちらの想像どおりの質問をしてきた。
「ノリオ何食べる?俺何でもいいけど」
私は半ば呆れながら用意しておいた答えを返した「大正区辺りで御飯物にしようぜ、ハコのすぐ近くでファミレスも多いしな」
「ハコって何?」
「ライブハウスの事やがな」
「へー」三平はハンドルをきって駐車していた場所から車を道路に戻し、発進させ、また想像どおりの言葉をつらつらよこした。「とりあえずノリオにまかせたから道順教えてよ」
こん畜生、と私は思った。相変わらずいつものとおりってわけか。こいつは一体いつになったら自分で物事を決められるようになるんだろうか?いつだって漠然とやって来ては『何しよう?』『どうしよう?』『何処行こう?』の繰り返しじゃないか。まったく、無計画にも程が有るぜ。こいつと来たら一から十まで誰かにお膳立てしてもらわなければ気が済まないらしいや…などと内心苛立っていると三平がぽつりと言い放った。
「いい店が見つかったらすぐ言ってな、すぐ車停めるし」
夕闇の中、さほど賑やかではない住宅街をぬけ、港湾地区行きの電車が走る高架線路の下に沿うように伸びる道路を西へ向かった。三平にとっては不慣れな道だがその方角が大正区への近道になるはずだった。
三平側の、即ち運転手席の外に見える高架下の景色は薄暗く、支柱らしき鉄骨が凍えるように立ち並んでいた。私の座っている助手席側の窓からは閑散とした歩道が見え、街路樹が強風に傾いでおり、私の視界に冬の寒さをより一層強調せしめていた。
「伊藤さんのバンドの出番って何バンド目なん?というか、調子どうなの?」
「えっ?」私は一瞬返事に窮し、曖昧模糊な答えを見繕った「んー、さぁ、多分うまいことやってんじゃない?」
「そう、よかった」三平は訊いてはみたがどうでもよいといった感じでフロントガラスの先を見つめながら手際よく次の質問に移っていた「タミちゃん元気かなぁ、伊藤さんとの新婚生活うまくいってんのかなぁ?」
「まー、うまくやってるでしょう」
「最近会ったりしてないの?」
「うん、まあね」そう気楽に会えるものか。私は勝手にカーステレオに手を伸ばしCDのスタートボタンを押した後、思い出したかのように言葉を繋いだ「あいつらの結婚式の二次会以来かなぁ…」
車内に曲が流れた。聴き覚えのある安物のロックだった。だらだらとくだらないギターによるくだらないイントロの後、どうしようもないボーカリストによる半径5m圏内の恋愛を描いた歌が延々続いた。典型的FM局押し売りソングだ。
悪寒。永久凍土。富士の樹海…。三平の音楽センスを疑い私はうんざりしながら押し黙っていた。ところが三平が思わぬ事を言った「これ、俺が中二の時にノリオに薦められて買ったCDなんだぜ、憶えてる?」
悪寒。永久凍土。富士の樹海…。三平の音楽センスを疑い私はうんざりしながら押し黙っていた。ところが三平が思わぬ事を言った「これ、俺が中二の時にノリオに薦められて買ったCDなんだぜ、憶えてる?」
「えっ!」虚を衝かれ、恥ずかしさに私は顔が真っ赤になった「そ、そうだったっけな…」
「そうだったけな…ってなに言ってんのさ」三平は続けた「三年前にもノリオ、伊藤さんとタミちゃんと呑んだ時、カラオケで歌ってたよ。これ」もはやフルチンで小学校のピロティに立たされている気分だった。だが三平はお構いなく続けた。…実はあの頃さー、この曲全然良さが解らなくてずっと聴かずに放ったらかしにしてたんだけどね…この間何も聴く物が無くて久しぶりに聴いてみたら案外良くてさー…。私は何も言えず、心の中で再度三平の音楽センスを訝った。三平はなおも続けた「ギターがいいよね、特にイントロのフレーズが何というか、こう、クールな感じでいいよね」
「そうだったけな…ってなに言ってんのさ」三平は続けた「三年前にもノリオ、伊藤さんとタミちゃんと呑んだ時、カラオケで歌ってたよ。これ」もはやフルチンで小学校のピロティに立たされている気分だった。だが三平はお構いなく続けた。…実はあの頃さー、この曲全然良さが解らなくてずっと聴かずに放ったらかしにしてたんだけどね…この間何も聴く物が無くて久しぶりに聴いてみたら案外良くてさー…。私は何も言えず、心の中で再度三平の音楽センスを訝った。三平はなおも続けた「ギターがいいよね、特にイントロのフレーズが何というか、こう、クールな感じでいいよね」
「あ、はは、は、そう…だね?」私は苦虫を千匹噛み潰して応えた。三平はCDにあわせてメロディを口ずさみ出した。が、しばらくすると交差点に差し掛かり車を減速させ(口ずさむのを止めて)こちらを向いた
「まだ真っ直ぐ進むの?」
「うん、まだまだずっとな」
交差点を通り抜けた時、三平側の窓に反対車線を行くバスの灯りが横切った。外はすっかり暗くなっており道路を照らす街灯が寒風とともに宙を舞っては過ぎ去って行った。
三平はまたメロディにかまけ始めたが私は半ば気にならなくなっていた。それよりも三平が先程言った三年前の日々を思い出し様々な事が胸に去来していた。窓を過ぎ去る灯り。安物のロックミュージック。コーヒーを飲み、ガムを噛み、眠気を振り払い運転する伊藤と、その傍らでシートのリクライニングを倒しメロディにかまけている私。後部座席ではすやすやと寝息を立てているタミコ。山陽自動車道パーキングエリアでのミーティング。車内後部座席でタミコと始めて手を繋いだ夜。ライブハウスやクラブ・イベント、CDショップでのインストアライブ…私達三人が紡いだハーモニーの数々、それがいつから狂ってしまったのか。遠い過去の様にぼやけながらも、部分的に生々しい記憶が、窓の外、夜の闇に傷口を開けていた。あの頃私達三人は確かに半径5m圏内に居たのだ。伊藤はあの頃よりギターが巧くなったのだろうか?…
「これ、まだ真っ直ぐ行くの?」
「えっ?」三平の言葉に我に返り前を向くと二つめの交差点に差し掛かっていた
「あ?ああ、まだ、まだ、真っ直ぐ、真っ直ぐ」
その瞬間、のろのろと逡巡しながら進む車を急かすように後続の冷凍トラックが勢いよくクラクションを轟かせた。三平は慌てて速度を取り戻そうとしたが、後続車はそれぞれ呪いの表情を見せながら一台、二台と我々を追い越して行った。
つられて三平も呪いの表情をこちらに向けた。
「しっかりしてくれよなぁ、俺、道しらねぇんだしさー」
「ごめんごめん、俺ナビゲートする役目忘れてたわ」少しの怒気を孕んだ三平の言葉を受け、三年前の思い出から姿勢を正しつつ私は慌てて付言した「えーっと、確か信号があと三つか四つ来たら右折の筈だから」
しばらく直進を続けていると道路に面して商店の櫛比する区域に入った。弁当屋、ペットショップ、喫茶店、酒屋、それぞれがそれぞれのルクスを晧晧と道端にばらまいていたが相変わらず街路樹の枝が風に震え、寒波に身をすくめた人々が辺りを三々五々歩いているといった寒々しい光景に変わりは無かった。一際光量の目立つ大型古書チェーン店でさえ、その郊外型の広き駐車スペースに車もまばら、小学生や主婦の物と思わしき自転車が放縦に散立しているのみだった。
「こんな所にブックオフなんて在ったっけ?」と三平が言った。
「うん、つい最近出来たんだけど、本もCDもあんまりいいの揃って無いからなー、あるのは『マディソン郡の橋』ばっかりだしさ…」といいながら思い出したかのように私は続けた「あ、次の交差点で右折な」
「でも、見たところDVDのコーナーもあるし、『ゴッド・ファーザー』くらいは有るんじゃないの?」店舗を左横目に三平は私のナビゲートをすっ飛ばして言った。減速する気配も無く、差し掛かった交差点をもすっ飛ばそうとしていた。
「三平そこ!」私は声を少し荒げた「そこで右折だってば!」
「えっ??ぬぁぁここか!?もう一つ向こうかと思ってたよ!」三平は慌ててハンドルをきって交差点を乱暴に右へ折れ、勢いそのまま反対車線を渡ろうとした。助手席側の窓からは高架を支えている柱がすぐ真横にあった。そこから三平が車の前輪部分を反対車線側に出した瞬間、柱の影から射るような光が近付くのを感じた。見ると4WDのバンがこちらへ迫って来ていた。恐怖で蒼ざめながら私は叫んだ「危ない!三平!車来た!クルマ!」
「え?…うわ!」三平は車を急停止させたが運悪く車体の半分は既に反対車線に乗っかっていた。バンのクラクションが轟いた。
「うわ!うわ,うわ、どうしよ!」三平は叫んだ。急ブレーキを踏んだ為エンストを起こした車は、突進するバンに対して左の横っ腹を見せたまま動こうとしなかった。
「早く!早く!三平!」
迫り来るヘッドライトの光。急ブレーキをかけているのだろう、バンから悲鳴のような音がしたがすぐにそれは路面をスリップする時の摩擦音に変わっていた。
私はもがくように叫んでいたがバンの装飾的なフロントグリルがありありと視界に入って来た時点で叫ぶのを止め、半ば死を覚悟し、反射的に両手で頭を蔽い身を屈めた。
迫り来るヘッドライトの光。急ブレーキをかけているのだろう、バンから悲鳴のような音がしたがすぐにそれは路面をスリップする時の摩擦音に変わっていた。
私はもがくように叫んでいたがバンの装飾的なフロントグリルがありありと視界に入って来た時点で叫ぶのを止め、半ば死を覚悟し、反射的に両手で頭を蔽い身を屈めた。
次の瞬間、頭蓋を揺すぶるような音と衝撃が走り、窓ガラスが粉々に砕け、飛び散り、ドアが何者か動物的な力によって圧されてひしゃげ車体ごと弾き飛ばされるのを感じた。金属的破裂音、圧倒的な力、飛び散る破片、それらを一斉に浴びせかけられ、私は目を閉じたまま固まっていた。
「大丈夫かノリオ!怪我無いか?ノリオォ!」動揺と恐慌に満ちた声で運転席の三平が私を揺すぶっていた。
(お、おー、俺…まだ生きてる?…か?)私は内心確認するように呟いた。すぐに意識があるのが解った。しかしあまりの出来事に言葉がすぐに出なかった為、三平は尚も私を揺すぶり続けた。
「ノリオ!しっかりしろ!ノリオ!」
私は茫然としながらも上体を起こし、辺りを見廻そうとしたが左眼に窓ガラスの破片が入っており目を開くことが出来なかった。
「ノリオ…大丈夫か?何処か怪我してるんじゃないか?」三平が今にも泣き出しそうに声を震わせた為、私は慌てて返事をした。
「あぁ、なんとか、無事みたい…」目をしぱたかせ、指先で破片をこそぎ落として辺りを見廻した。側面のドアは見事なまでに凹み捻じ曲がって、私の太腿に寄り添うようにくっついていた。あと少しで左脚を丸ごと食い尽くさんとばかりに、先程までドアだった鉄片がふくらはぎから爪先にかけて乗っかっていたが、痛みも殆ど無く、容易に足を抜くことが出来た。
窓はすっかりガラスが抜け落ち十二月の寒波が容赦無く車内にも吹き荒れていた。
「あぁ、俺、さっきノリオが死んじゃったと思ってさ…」三平が安堵の表情を見せながらも申し訳なさそうに言った「本当に何処も怪我はないの?」
「うん、なんとか無事みたい、でもこれ、すごいことになったな。修理ももうアウトじゃない?」私もナビゲートを任されていた分申し訳ない気持ちがした。三平はそんな事気にするなと言って視線を外に向けていた。
外では、フロントグリルが跡形も無くひしゃげ、バンパーはへこみ、鼻っ面を潰されてあらぬ方向を向いているバンの巨躯があった。右のヘッドライトはもげ落ちてどちらの物とも判別しづらい路上の破片に紛れ、ワイパーは折れ曲がり宙を指していたがフロントガラスはなんとか無傷のようだった。そのガラス越しに車内に男女の姿が認められた。どうやらあちらも無事のようだった。
私は体中に浴びた破片を払い落としながら後部座席にゆっくりと移った。その動作はゆっくりではあったが、あまりのスムーズさに逆に自分は今死んでいるのではないかとさえ疑う程、肉体が軽かった。脳が身体の重みを忘れているのだ。
三平はボクシングのレフェリーの様に私が無事かどうかと再三確認した後、寒さに身をすくめながら車外に出て行き、思わぬ事態に不貞腐れたような表情をしたバンの運転手らしき男と何やら話し始めた。だがすぐにもそれは怒号と罵声の入り交じったものに変わって行った。バンの助手席にはふくれっ面の女が携帯をいじくっていた。
しばらくしてパトカーとオートバイに分乗した五、六人の警官がにやにやとやって来た。検分の合間にナイターの試合経過を挟みながら二人の免許証や車検証を調べてにやにやと世間話をしていた。
私はそれらを後部座席より見つめながら終始まどろんでいた。冷たくなったシートに身を横たえているとまるで車輪付きの柩に居るような気がして生きた心地がしなかった、というより自分が生きてるかどうかすら怪しいものだった。
目に映る現実すべてが覚束無い物に思え瞼を閉じてみた。ところが次の瞬間、聞き覚えの有る音がして慄然とした。
ちゅゅゆんっ ぱらぱら ぱーらぱ
ちゅゅゆんっちゅぴろぽん ぷーへぷー
らーぶ らーぶ せかんどらーぶ…
先程までぶつかったショックで鳴りを潜めていたカーステレオが突然息を吹き返し、身も凍えるようなハッピー・サウンドをスピーカーより轟かせ、ガラスのぬけ落ちた窓から事故現場に半径5mラブソングを流し始めたのだ。警官が慌ててこちらへ怒鳴った「こら!エンジンを切りなさい!危ないだろうが!」私は何もしていない旨伝えたが信じてもらえなかった。だがそんな事よりも頭皮に微かな痛みを感じてならなかった。髪を手櫛で掻き分けたところ窓ガラスの破片がぱらぱらとフケのようにちらばり落ち、頭頂部から血がしたたか滲み出ているのが判った。その時何故か私は伊藤の事を思い出した。そして真っ暗な車内で時刻を確認すべく腕時計を見ようと試みた。だがすぐにも止めた。無駄な事だ。それよりもライブを観に行けない口実が出来たのだ。そう思うと何故か喜びに似た感覚がよみがえって来た。車内には安物のロックが流れていた。私は生きている。
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