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イラストレーター、DJ ヨシダキョウベイ[Kyobei]/大阪芸術大学美術学科中退/伊勢志摩マニア お仕事のご依頼は kyobeya@gmail.com まで。

2011年3月24日木曜日

加地等と私とユーゾーズと

 先日、フォークシンガーの加地等が亡くなったという報せを受けた。享年40歳。肝硬変だったらしい。

 ご両親に連絡をとり、友人を集めて週末の夕方、彼の部屋に設けられた祭壇に線香を灯し、手を合わす事が叶った。部屋には遺品が遺されてあり、壁際には彼が生前聴いていたカセットテープが山と積まれてあった。ラベルには手書きでアーティスト名や、アルバムタイトルが記され、中には〈ピーピング・マニア〉や〈ユーゾーズ〉という懐かしいものもあった…。

 私と彼は過去、その〈ユーゾーズ〉というGSスタイルのバンドを組み、活動を共にした仲間だった。
学生時代に共通の友人を介して知り合い、GSやR&B、ガレージ・サウンドや60’sロックについて語り合ううち意気投合し、バンドを組むに至ったのだ。
 学年が二年上であった彼は既に〈ピーピング・マニア〉というパンクバンド(後期はフォーク・ロックへ転向)を率いて学内を中心に活動していたが、そのバンドと並行してユーゾーズに参加してくれたのだ。
ユーゾーズはその後学外へ飛び出し、東京から広島まで活動の幅を広げ、ザ・ヘアやハッピーズ、トゥィナーズ、ちぇるしぃ、ウォッカ・コリンズ等と共演し独自のイベント〈フリフリ’95〉をライブハウスやクラブ等で主催するまでになった。

バンドを二つ掛け持ちするという忙しいさなかに彼は古着屋の経営にも乗り出していた。大阪市の南東に位置する天王寺。あべのアポロという商業ビルに友人と共同で〈ピンキーチック〉なる店をオープンしたのだ。
当時は古着ブームということもあり店は活況を呈した。店舗から程近い四天王寺の境内で毎月21日に開かれる弘法市(フリー・マーケット)にも出店する程であった。私もアルバイト要員として駆り出され早朝、軽トラックから荷を降ろしブースを設営し、販売を手伝う。そして交代で店番をし、他の店舗ブースへと買い物に回ったり、中古レコードの山を漁ったり、と、まるでピクニックのような市場の楽しさを皆で共有したものだ。『おい!スパイダースのシングル、ゲットしたぞー!』 嬉々としてブースに戻ってくる加地君が懐かしい。

京都、ウーピーズにて
もちろん、これらのいい思い出ばかりではない。口喧嘩はしたし、意見もかなりぶつかりあわせた。お互いの嫌な部分を陰でののしり合いもした。
『キョウベェ、俺はこう思うねん!』
彼はよくこう言って自己の哲学を私にぶつけてきた。私には彼の哲学が分からない時があった。お互い一歩も引かず、やりあったりもした。DrのゴキオやBaのガリ(雅史)といった他のメンバーは私達のやり取りをいつも心配そうに見つめていた。そしてそれら衝突の結果は解散、空中分解という形で幕を下ろす。今思えば、私達は子供だった。相手を許す事の出来ない、自尊心ばかり高い子供に過ぎなかった。そして恐らく加地等の音楽人生の中で一番衝突が多かった相手というのは私ではないかとも推測する。それ程、短い活動期間内に私達は意見を戦わせた。

 だけど今やそれすらかけがえのない日々だったと分かる。

 失ってから気付く、という事は沢山あるが、これほど、一つの時代の終焉を感じさせる別れって他にあるだろうか。

 私は今、彼の笑顔が忘れられない。仲間内では常にクールで歯に衣着せぬ発言も辞さない男だったが、時折見せる微笑みには人を惹きつけて止まない魅力があり、言い知れぬ安堵を感じさせられたものだ。それは彼が私達の心の支柱であった事のまぎれもない証左でもあった。

その事を思うと、初めて東京で演奏をする為に、皆で車に乗り込み真夜中の高速道路を東へ走ったあの日まで、私を連れて行ってくれる。未知への挑戦。今までやった事のない、誰も教えてくれなかった世界へ皆で飛び込んで行くのだ。それは胸が躍るとともに幾許かの恐怖を伴う経験でもあった。冷遇を受け、物笑いの種となって帰ってくることになったらどうしようか…そんな不安も孕んでいた。だが、それらの不安を払拭し果敢に突破出来たのも、年長者で兄貴肌だった加地等がそこにいてくれたからである。〈心強い味方が俺達にはいる〉そういう安堵感が私達の心のどこかに常にあったから乗り越えられたのだ。これは間違いない。
夜中じゅう車を飛ばし、朝日がそろそろと東の空に昇り始める頃、車窓に現れた富士山を眺め、皆で感嘆の息をもらした。そうして富士の威容を後にし、前方に広がる車窓に目を転ずるや、東名高速が遥か彼方まで黄金色に染まっていた。とても眩しい朝日。あの黄金の中で今晩演奏するのだ。私達の誰もがそう思い感動に打ち震えていた。
そしてあの日から16年経った今、私は加地等とユーゾーズというバンドを組んでいた事を誇りに思う。加地君、思い出を沢山ありがとう。君の事は一生忘れないよ。
謹んでご冥福をお祈り致します。


2011年3月10日木曜日

思い出のぞうもつサンセット

 小学校4年生の頃だったと思うが、通学路に突如ホルモン焼きの屋台が出現した。夕方4時頃、いつもの帰り道である市営住宅横の歩道に、人が一人入れるくらいの屋台が設置されてあったのだ。中ではおっちゃんがせっせとホルモンと手羽先を焼いている。その屋台横ではおっちゃんの相方とおぼしき、肥ったおねえさんが台に並べた駄菓子を売りつつ、ホルモンや手羽先の註文を受けたりお勘定をもらったりと、フォローに回っていた。屋台の周りでは目ざとい連中がすでに集まっていた。近所のガキ大将や、その取り巻きのやんちゃそうな奴らがわんさと屯し、買い食いや玩具遊びに興じていたのだ。
 物珍しさと香ばしい匂いにつられ私も近寄って見た。見たこともない肉が串に刺され鉄板の上でじゅうじゅう焼かれている。脇には醤油を塗られた鶏の手羽先まで焼かれている。〈ホルモン一串20円。手羽先一ケ50円〉と書いてある。小遣いはあまり持っていなかったが、物は試し様、懐をはたいて何串か買い、悪ガキ達と肩を並べその場で食べてみた。そして次の瞬間吃驚した。
 この世にこんなおいしい食べ物があったなんて初めて知ったのだ。
串には弾力のある白いテッチャン(大腸)と柔らかく黒いフク(肺)が交互に刺されてあり、歯応えのある食感は今までに食べたどの肉にも勝るものだった。味も醤油か塩のみで調味されており、後々知る世間一般のホルモン焼のように甘くはなかった。
 感動したのは言うまでもない。これが私にとってのホルモン焼、原体験であり、忘れられない味となった。
 以来、屋台には何度も通った。小遣いの続く限りほぼ毎日買い食いをしに走ったものだ。ホルモンだけでなく手羽先もよく食べた。手が脂でべとべとになるのだが、お腹が満たされるので止められなかった。鍵っ子という事もあり夕方6時頃まで母親が帰宅しないからいつも空腹を抱えて、足を運んでいたのである。
 だけど、そんな日々も長くは続かなかった。
 ある日を境に屋台は居なくなってしまったのだ。
 どうやら“食後の串や手羽の骨等を子供達がポイ捨てする為掃除に困っている”と市営住宅自治会からのクレームにあい、やむなくその場から撤退したというのだ。子供心に大変がっかりしたのを憶えている。最後の頃、肥ったおねいさんがしきりに『ゴミを散らかさないでね』と皆にふれ回っていたのもこの為だったのだ。
 あの不思議な食感と味が忘れられなかった私は、隣町商店街まで赴き、肉屋の店頭で販売されていたホルモン焼を代わりに買ってみた。だが、あの屋台の味とまるで違う甘辛い味付けにまったく好きになれなかった。そして世間一般でいうホルモン焼とは、どちらかといえばこちらの方の味なんだという事も知り、重ねがさね落胆したものだ。もう二度とあの味には会えないんだろうな、と。


 数年後、高校生の私は興味本位で西成~新今宮界隈を探検するようになっていた。辻々角々で小指を立て秋波を送ってくる立ちんぼのおばさんを冷やかし、酔っぱらい同志がパチンコ屋前で喧嘩するのを観戦したりと、町に横溢するスリルを存分に楽しんでいたのだ。そんな夕刻の新今宮で私は懐かしいものを目にした。路肩に停めた軽トラックの荷台にてじゅうじゅうとホルモンを焼いている業者がいるのだ。トラックのまわりではドヤの労働者達が缶ビールやワンカップ片手にホルモンをつつきながら仕事帰りの晩酌を楽しんでいる。
 高校生の身空で彼らむくつけしニッカポッカ・メンの輪に加わるのは勇気がいった。だけど、軽トラ荷台の鉄板から香ばしくも美味しそうな匂いが湯気とともに溢れて来るのだ。育ち盛りの夕刻。食欲に歯止めは利かない。気がつけば私も彼らとともにホルモンやレバーをほおばっていた。一串40円。味はあの頃の屋台の味と違い、やはり甘辛かった。だけど、テッチャン(大腸)が持つ独特の歯応えや風味は一緒だった。私は嬉しさのあまり、機会ある毎に何度もここへ通った。
 だが21世紀に入って11年経った現在立ちんぼも減り、ストリート・ファイトも中々見かけなくなり、軽トラ屋台すら路肩から居なくなってしまった。街並みは整備され、道路占有の問題や食品衛生法の問題等、屋外にて飲食屋台を営むにはあまりにも規制が増えたように思える。おかげで面白い店は軒並み姿を消していった。その中には皆が行列を作ったり、屯したり、足繁く通いたくなる“小さな名店”もあったはずだ。一見住みやすい街づくりをしているようにも見えるが“管理”という名の下、通学路のホルモン屋台が消えたのと同じやり方が執行され、町をどんどん無味でつまらないものにしていってるように思えてならない。多少の混沌と猥雑を恐れるあまり町の活気につながる脈を削いではならないのだ。感動は大人しく整然としたものばかりが生むわけではないのだから。