先日、フォークシンガーの加地等が亡くなったという報せを受けた。享年40歳。肝硬変だったらしい。
ご両親に連絡をとり、友人を集めて週末の夕方、彼の部屋に設けられた祭壇に線香を灯し、手を合わす事が叶った。部屋には遺品が遺されてあり、壁際には彼が生前聴いていたカセットテープが山と積まれてあった。ラベルには手書きでアーティスト名や、アルバムタイトルが記され、中には〈ピーピング・マニア〉や〈ユーゾーズ〉という懐かしいものもあった…。
私と彼は過去、その〈ユーゾーズ〉というGSスタイルのバンドを組み、活動を共にした仲間だった。
学生時代に共通の友人を介して知り合い、GSやR&B、ガレージ・サウンドや60’sロックについて語り合ううち意気投合し、バンドを組むに至ったのだ。
学年が二年上であった彼は既に〈ピーピング・マニア〉というパンクバンド(後期はフォーク・ロックへ転向)を率いて学内を中心に活動していたが、そのバンドと並行してユーゾーズに参加してくれたのだ。
ユーゾーズはその後学外へ飛び出し、東京から広島まで活動の幅を広げ、ザ・ヘアやハッピーズ、トゥィナーズ、ちぇるしぃ、ウォッカ・コリンズ等と共演し独自のイベント〈フリフリ’95〉をライブハウスやクラブ等で主催するまでになった。
バンドを二つ掛け持ちするという忙しいさなかに彼は古着屋の経営にも乗り出していた。大阪市の南東に位置する天王寺。あべのアポロという商業ビルに友人と共同で〈ピンキーチック〉なる店をオープンしたのだ。
当時は古着ブームということもあり店は活況を呈した。店舗から程近い四天王寺の境内で毎月21日に開かれる弘法市(フリー・マーケット)にも出店する程であった。私もアルバイト要員として駆り出され早朝、軽トラックから荷を降ろしブースを設営し、販売を手伝う。そして交代で店番をし、他の店舗ブースへと買い物に回ったり、中古レコードの山を漁ったり、と、まるでピクニックのような市場の楽しさを皆で共有したものだ。『おい!スパイダースのシングル、ゲットしたぞー!』 嬉々としてブースに戻ってくる加地君が懐かしい。
『キョウベェ、俺はこう思うねん!』
彼はよくこう言って自己の哲学を私にぶつけてきた。私には彼の哲学が分からない時があった。お互い一歩も引かず、やりあったりもした。DrのゴキオやBaのガリ(雅史)といった他のメンバーは私達のやり取りをいつも心配そうに見つめていた。そしてそれら衝突の結果は解散、空中分解という形で幕を下ろす。今思えば、私達は子供だった。相手を許す事の出来ない、自尊心ばかり高い子供に過ぎなかった。そして恐らく加地等の音楽人生の中で一番衝突が多かった相手というのは私ではないかとも推測する。それ程、短い活動期間内に私達は意見を戦わせた。
だけど今やそれすらかけがえのない日々だったと分かる。
失ってから気付く、という事は沢山あるが、これほど、一つの時代の終焉を感じさせる別れって他にあるだろうか。
私は今、彼の笑顔が忘れられない。仲間内では常にクールで歯に衣着せぬ発言も辞さない男だったが、時折見せる微笑みには人を惹きつけて止まない魅力があり、言い知れぬ安堵を感じさせられたものだ。それは彼が私達の心の支柱であった事のまぎれもない証左でもあった。
その事を思うと、初めて東京で演奏をする為に、皆で車に乗り込み真夜中の高速道路を東へ走ったあの日まで、私を連れて行ってくれる。未知への挑戦。今までやった事のない、誰も教えてくれなかった世界へ皆で飛び込んで行くのだ。それは胸が躍るとともに幾許かの恐怖を伴う経験でもあった。冷遇を受け、物笑いの種となって帰ってくることになったらどうしようか…そんな不安も孕んでいた。だが、それらの不安を払拭し果敢に突破出来たのも、年長者で兄貴肌だった加地等がそこにいてくれたからである。〈心強い味方が俺達にはいる〉そういう安堵感が私達の心のどこかに常にあったから乗り越えられたのだ。これは間違いない。
夜中じゅう車を飛ばし、朝日がそろそろと東の空に昇り始める頃、車窓に現れた富士山を眺め、皆で感嘆の息をもらした。そうして富士の威容を後にし、前方に広がる車窓に目を転ずるや、東名高速が遥か彼方まで黄金色に染まっていた。とても眩しい朝日。あの黄金の中で今晩演奏するのだ。私達の誰もがそう思い感動に打ち震えていた。
そしてあの日から16年経った今、私は加地等とユーゾーズというバンドを組んでいた事を誇りに思う。加地君、思い出を沢山ありがとう。君の事は一生忘れないよ。